2021年3月某日、妻が出産を終え我が子を授かることができました。
初めての出産に立ち会い、いろいろな経験をさせてもらったので自分の記録用と、他の方の参考になればと思い記事にしました。
要点
想定外の長さ
微弱陣痛、前駆陣痛、呼び方はわかりませんが、最初に痛みが始まってから生まれるまで丸2日近くかかりました。
精神的にも肉体的にも妻は大変な思いをしました。
必要だと思ったもの
交通手段
産婦人科が家から歩いて2、3分なので、陣痛が来ても痛みの合間に歩けるかなと考えていたのですが、病院からも指示があり、タクシーを利用しました。
最初マタニティタクシーを登録していなかったので、駅までタクシーをピックアップしに行きました。
産婦人科が家から近い場合も、歩き以外の交通手段を用意した方が良いと思いました。
ストロー
ペットボトルの口に着けるストローです。
陣痛中は汗をかきますし、起き上がって飲み物を飲むのが難しいため飲み物を飲ませるのに必要でした。
テニスボール
陣痛の痛みを和らげるのに必須でした。他の道具や、手を使う方法もあるようです。
1日目
午後5時
妻がお腹が痛いと言い出しました。
ちょうど予定日だったので、陣痛かもという事になりました。
午後9時
病院に電話をしたところまだ本格的な陣痛になっていないようなのでしばらく様子見してほしいとのこと。
この日から妻の長い戦いが始まりました。
2日目
午前5時
数分おきに痛みがやってきて、妻は一睡もできないまま朝を迎えました。
痛みの感覚は、平均5分ですが、3分だったり11分だったりと安定しません。陣痛は10分から始まりだんだん短くなると聞いていたのですが少し様子が違うようです。
病院に電話してタクシーで向かいました。
子宮口がまだ1cmしか開いておらず、一度帰宅することになりました。
この状態では、入院しても出産まで時間がかかりすぎるため、もう少し様子を見て痛みがさらに強くなったら連絡してほしいとのことでした。
午前10時
痛みの強さも間隔も変わらない状態です。妻は、時折うめき声をあげて苦しそうです。
ベッドで横になりながら2時間くらい腰、背中をさすってあげました。熟睡はできませんが、少しうとうとできたようです。さすってもらって楽になってとても助かったと言ってもらえました。
嫁両親が心配して訪ねてきてくれ、昼食、夕飯を作ってくれました。
午後9時
痛みが始まってから丸1日以上たちましたが、陣痛の様子に変化はありません。
痛みの強さは同じでも、ずっと寝ていないのと、いつ終わるかもわからないという不安で妻は精神的にも追い詰められてきていました。「もう限界かも」という言葉もありました。
私は、痛みが来るたびにさすってあげるのですが、他には何もしてあげられません。
3日目
午前1時
痛みが増してきたとのことで、再び病院に行くことになりました。
検査の結果、子宮口が3cmまで開いており、入院させてもらえることに。激しい痛みがありますが、病院にいるという事で夫婦共に精神的に楽になりました。
看護師さんが、様子を見に来てくれ、マッサージのやり方や呼吸法、バランスボールを持ってきてくれたりと気を使ってくれました。
このまま朝まで妻は痛みと闘い、私は腰をさすり続けました。二人とも寝落ちしそうになりますが、寝られません。体力的にも限界を感じ始めていました。
午前9時
医師の診察があり、陣痛促進剤を使うことになりました。お産にならなければ、帝王切開になるとのことで不安になりました。
陣痛促進剤は、機械で点滴に混ぜて投与されます。毎時10mlからスタートして徐々に量を増やしていくようです。
投与後すぐに陣痛が始まりました。今までとは明らかに違う妻の苦しみ様です。
ここからの3時間は妻にとって地獄のような時間だったと思います。
この苦しみは経験した妊婦さんにしかわからないと思います。どのようなものであるか、私が書けるものではありませんし、書くべきでもないと思うので詳細は省きます。
陣痛の最中の私ですが、最初何もできませんでした。さすってあげてどうにかなる痛みではなく、「がんばれ」と声をかけることさえはばかられる状態でした。
しばらくして妻が、テニスボールを使って痛みを和らげてほしいというので、私は陣痛に合わせてテニスボールで押しました。
相変わらず声をかけることはできず、必死でテニスボールを押し込みました。自分に唯一、与えられた役割があることに感謝しました。
妻はおなかに力が入ってしまうのですが、苦しみながらも赤ちゃんが大丈夫かを心配しているようで、それが印象的でした。
午後1時
陣痛促進剤の投与が毎時40mlになり、合計の投与量が100mlを越えたあたりだったと思いますが、診察が行われ分娩室に移ることになりました。子宮口は8cm開いているとのことでした。
先に妻が入り、立ち合い出産することになっていた私も支度をして後追いで分娩室に入りました。
助産師さんの指示で妻はいきんだり、休んだりを繰り返していました。
このまま産めそうだという事がわかってきたので、やっと苦しみが終わると思い、うれしさがこみ上げてきました。妻の顔もどこか晴れやかでした。
助産師さんが、ビニールのエプロンを付けたり、タオルを広げたり赤ちゃんをとりあげる準備を始めました。
このまま産めるという事が確定的になったと思い、とてもうれしくて涙が出ました。生まれた瞬間と同じくらいうれしかったです。
ここでの私の役割は、水を飲ませる、うちわであおぐ、いきみに合わせて枕を持ち上げてやることでした。
ここから生まれるまでは2時間程度かかりましたが、妻は本当に良く頑張りました。
いきむときに息を止めて力を入れるので酸欠気味になり、途中から酸素マスクを付けました。
妻は時々痛いと声を上げますが、陣痛の時の様な絶望的な感じは無く、表情には喜びと決意が見て取れました。
助産師さんがかけてくれる言葉や会話から、出産が順調であることがわかり安心しました。
いよいよ生まれるかという時に、「先生呼んできて」と聞こえたときはヒヤリとしましたが、これは会陰切開といって生まれる最後の段階で、入り口のところを切るのだそうです。
午後3時
会陰切開の後は、いきむ必要はなくするりと子供が出てきました。
取り上げられた子供が最初に見えた時に思ったことは、「これで大丈夫なんだろうか」という事です。
まず、すぐには泣きませんでした。2秒ほどたって、小さく「オギャ」と聞こえました。
先生が「泣きましたね」と言ってくれたので、「あ、これでいいんだ」と少し驚きました。10秒ほどして本格的に泣き出しました。
「生まれたてはお猿みたいだよ」と義父に言われていたので、まあそうだろうな。と思っていたのですが、実際に見てみると、想像していた赤ちゃんとはあまりにかけ離れた姿で心配になりました。
赤ちゃんは看護師さんたちが、拭いてきれいにしてくれました。
写真撮影の許可がでて赤ちゃんの写真を撮りました。先ほどの心配は安心に変わり、本当にかわいいと思いました。
頭から足の先まで、何もかもが小さくて精巧な人間のミニチュアの様です。それが動くという事に感動しました。
赤ちゃんは産声を上げた後、私が病院を出るまで一度も泣きませんでした。くしゃみをして、口をパクパクさせて、目はうっすらと開いていました。
何を考えているのかと覗き込んだのですが、何度やっても目が合わず、意図的にそらされているようでした。この子とうまくやっていけるのか、少しだけ不安になりました。
顔はなんとなく自分に似ていると感じましたが、亡くなった祖父や、義父の面影もあって面白いなと思いました。鼻の形が妻と全く同じだったので思わずにやけてしまいました。
妻の処置が終わり、少し落ち着くまで2時間程度は3人で過ごすことができました。
妻は、疲れ切って体もボロボロでしたが、晴れ晴れとしてやりきった誇らしげな顔をしていました。私は「本当にお疲れ様、ありがとう」と、心からの感謝を伝えました。
妻が赤ちゃんを見る表情も本当にいとおしいものを見る優しい表情で、これが母親の顔なんだなと改めて感じました。
写真を撮ったり、両親にテレビ電話で報告をしました。赤ちゃんは、服と帽子を着せてもらいより人間らしい姿に見えました。
初めて抱っこしてみると、首をのけぞらせ頭で私の腕をぐっと押してきました。
首の座っていない赤ちゃんは、首が弱くすぐに折れてしまうようなイメージだったのですが、思ったよりしっかりしていることに驚きました。
名残惜しいですが、ここで一度お別れです。コロナの為、退院まで病院に立ち入ることはできません。
私は幸せな気持ちで帰宅し、お風呂に入って10時間くらい寝ました。
最後に
出産を終えてたくさんの方に感謝の気持ちでいっぱいです。
子供を無事に産めるように尽力していただき、コロナ禍にも関わらず立ち合い出産をさせてくれた産婦人科の方々。
あんなに苦しい思いをして、頑張って子供を産んでくれた妻。同じように苦しんで自分を産んでくれた母親。
サポートしてくれた周りの方々。
本当に、ありがとうございました。